【座談会2】がんゲノム研究におけるデータ解析の展開
本対談は2025年3月7日に発行された研究科広報誌「創成」45号の座談会「がんゲノム研究におけるデータ解析の展開」全文です。
座談会参加教員:
メディカル情報生命専攻
鈴木 穣教授 SUZUKI Yutaka
先端生命科学専攻 兼任(国立がん研究センター先端医療開発センター長)
土原 一哉客員教授 TSUCHIHARA Katsuya
メディカル情報生命専攻
鈴木 絢子准教授 SUZUKI Ayako
鈴木(穣) 私たちのテーマは、がんゲノム医療におけるデータ解析の貢献ということですが、日本で本格的にがんゲノム医療が始まったのが2019年です。
土原 2019年というと、複数のがんゲノムの遺伝子異常を次世代シークエンサーを使って同時に調べる「遺伝子パネル検査」が保険収載され、公的医療制度の中で使えるようになった年で、がんとゲノムと治療がひとつながりになったタイミングでした。
ただ、がんゲノム医療そのものはもっと早くから行われています。まず、20世紀の終わりから21世紀の初頭にかけて、抗がん剤に分子標的薬という新しいタイプが登場しました。分子標的薬の開発においては、特定の遺伝子に変異があるがんには非常によく効くけれど、そうではないがんには効き目が薄いという現象が見つかってきました。そこでバイオマーカーによるゲノム検査をもとに治療薬の使用を決めていこうというプレシジョンメディスン(精密医療)というコンセプトが出てきたのです。ゲノム検査で(ゲノム解析ではなく)治療薬を決めるようになったのが2000年から2000年代の半ば頃のことです。
鈴木(穣) 2000年代半ば、日本で初めて東大の柏キャンパスに次世代シークエンサーが入り、がんゲノムを網羅的に解析できるようになりました。私と土原先生、鈴木綾子先生が初めてお会いしたのもその頃です。
土原 精密医療を可能にする分子標的薬が出てきたタイミングと、ゲノム分野で圧倒的な解析スピードを持つ次世代シークエンサーが登場したタイミングがちょうど重なったわけです。さらにそこから先、両者がきちんと組み合わさるまでに10年ぐらいかかり、日本では2019年に保険診療で「がん遺伝子パネル検査」が行われるようになったのです。
ただ、「がん遺伝子パネル検査」以外にも日本では多くのゲノム検査が行われています。それらを含めてがんゲノム医療として括らないと話がおかしくなる点には注意が必要です。これは私がいつも強調していることです。
整理すると、分子標的薬の開発とゲノム解析技術の進歩が同時進行でクロスしたのが2000年代後半のことです。ちょうどその頃、柏の東大(新領域)で鈴木先生が30代、国立がん研究センターで私も40歳そこそこで、「何か新しいことやりたい」と思い、また「新しいことをやりなさい」と言われたのです。私には次世代シークエンサーがどんなものか全然わかりませんでしたし、鈴木先生もがんゲノムにそれほど興味を持っていなかったと思います。でも、「隣同士なんだから何かここで新しいことを考えよう」というところから、日本におけるがんゲノム医療のための本格的なデータ解析がスタートしたのです。
鈴木(穣) 日本で初めて臨床検体を使ったがん細胞のゲノム配列を決めたのは、土原先生と私が一緒にやっていた肺がんでしたね。
土原 その前に細胞株のトランスクリプトーム(全RNA)解析もありましたが、当時は患者さんのがん組織のゲノム解析はまだコストが高く、サンプルを集めるのも大変なためほとんど手つかずで、世界中で競争になっていました。
鈴木(穣) 日本人のヒトに関するデータベース(NBDCヒトデータベース ※1)では、登録番号の一番初め(1番は空欄で2番が実質の1番目)が土原先生と私で解析したゲノム配列です。配列を決定したのが2008年、登録したのが2010年でした。これから新しい時代が始まるんだという意気込みでやっていましたね。
また、技術やデータも大切だけれど、人材こそ鍵を握るだろうということで、元々がんのゲノムの解析をやりたいといっていた鈴木絢子先生にも加わってもらい、そこから15年になります。
絢子先生は新領域で修士と博士を修了し、土原先生のところに研究員として行って3年。うちの研究室に戻ってから特任准教授としてDSTEP(※2)で後進の育成を行い、今度、准教授になって次世代を率いる立場になってくれています。
※1 NBDCヒトデータベース :国内において、個人情報の保護に配慮しつつヒトに関するデータの共有や利用を推進するために、ヒトに関する様々なデータを共有するためのプラットフォーム。大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 データサイエンス共同利用基盤施設(ROIS-DS)ライフサイエンス統合データベースセンター(DBCLS)が国立遺伝学研究所と協力して運営する。扱うデータは、ヒト試料を用いた解析データ全般(塩基配列情報、変異データ、遺伝子発現アレイデータ、生化学検査値、臨床情報、質問票、心理検査、画像データ、音声データ、コホート研究から継続的に産出されるデータ等)を対象とする。
※2 DSTEP (Data Scientist Training/Education Program):バイオに関連したさまざまな企業からなるコンソーシアムや、学内運営機関として設置された社会連携講座との連携により、データサイエンスのより実践的な問題設定について、その問題解決に即戦力となる人材育成を目的とする新領域のプログラム。
土原 研究の面でも人材育成の面でも、最初からゲノムだけに絞るのではなく、臨床や創薬といった出口側と一緒に取り組むことはとても大事です。ある意味、我々は最初から日本におけるがんゲノム研究の起点になるつもりでやってきました。
鈴木(絢) 土原先生のもとで3年間、医局からきた先生方と一緒に学んだ関係がいまも続いていて、例えばがんセンターで新しいことをやると声がかかったり、こちらで新しい技術ができると「こんなケースで使えませんか」と提案したりしています。
土原 私たちの研究室にはがんセンターの外科、内科、放射線科、病理学の若手医師が研究に来ていて、日常的に廊下ですれ違います。新領域だけではなかなか出合わない専門の違う人たちと一緒に仕事をする経験をしてもらいました。おっしゃる通り、今もがんセンター東病院にいる臨床研究の人たちが、ゲノム関係で最初に相談に行くのは絢子先生のところという関係性が続いています。
鈴木(絢) 当時は無我夢中でしたが、今になってみるとあの3年間が一番楽しかったですね。
鈴木(穣) ほかにも、がんセンター東病院において呼吸器内科の後藤先生が始められたLC-SCRUMが消化管内科の吉野先生のGI-SCREENと一緒になってSCRUM-Japanとなり、(※3)多くの病院のほか製薬企業も20社ほど参加するコンソーシアムになっています。
※3 SCRUM-Japan:肺がん、消化器がんをはじめとする患者さんに有効な治療薬を届けることを目的として、がんの遺伝子変化を調べ臨床試験に繋げる産学連携プロジェクト。現在全国の200以上の病院が参加している。
土原 がんゲノム研究といってもいろいろな切り口があります。なぜがんが発生するのかという本態解明のためゲノムデータを使うケースがメインですが、15年前に鈴木先生と一緒に始めたとき、もうひとつ目標にしていたのは、実際の患者さんに還元される研究にしたいということでした。
基礎研究のためのツールとして捉えられていたときから、どうすれば臨床応用できるのだろう考え、ちょうどそのとき分子標的薬の時代になってきたのです。そこでゲノム解析をする目的の一つとして、新しい治療のターゲットになる遺伝子の異常を見つけられないかということろからスタートしました。
ただ、1、2年もすると、そんなにターゲットは多くないというのが分かってきた。やればやるほど、それまで知られていた標的以外に見つかる頻度が低い。ゲノム解析によって新しい標的が見つかり、それを創薬研究者に渡せば薬を作ってくれると思っていたのですが、そうではなく、自分たちの方から動かないと薬の開発には繋がらないということが早い段階で明らかになったのです。
そこで次に、データの使い方として、1ヶ所に溜め込んで十分集まってから解析をするのではなく、ためながら共有する、解析をしながら共有するというやり方をしていくのが良いと考えました。
患者さんとも、主治医とも、製薬企業とも、研究者とも共有するのに適合するゲノム解析の仕方を考えていったのです。
鈴木(穣) アカデミアとしては、データをつくる人、解析する人、臨床応用する人が別々に離れて研究するのではなく、ある程度近いところにいて、さらにいえば分業制ではなく強弱あるにしても個々がある程度カバーしていないと役に立たないのではないかという問題意識を持っていました。
当時、生物学ではウエット(実験生物学)とドライ(計算機)の両立といった言い方がされましたが、それも比率の問題であって、いまやどちらもできないと基礎生物学者としてやっていけない時代になっています。また、がんに興味を持っているのであれば、どんな抗がん剤があり、臨床でどういう使われ方をしているのかを知らないと、あるいは知っている人を知らないと基礎生物学として成立しなくなっています。
これに関して絢子先生とは、ウェットとドライより、基礎と臨床の間の壁のほうが厚いのではないかというような話もしています。
土原 「臨床」とひと口にいいますが、実際は患者さんを治すフェーズのほか、特にがんセンターの場合は新しい薬の開発について創薬研究や臨床試験・臨床研究というフェーズもあります。どのフェーズにもゲノム解析が関わっており、それをどうコーディネートすればスムーズにいくのか。1人で全部やるのは難しく、コーディネーター人材が必要であるというのはよく感じます。
鈴木(穣) 振り返ると、日本はがんゲノム研究におけるデータ解析ではスタートダッシュよく、うまく走ってきましたが、その後の展開が何となく遅れている、押されているというイメージが拭えません。
土原 どう臨床に使うかといった応用面でのコーディネーションがあまりうまくいっていないのは世界的に共通するのではないでしょうか。
例えばイギリスでは新しいゲノム研究所を作るとき、臨床に明るい先生がゲノムの研究をするよう誘導している面があります。
マルチディシプルナリーなチームで横連携できるような人材が不可欠になってきており、その一つのケースとして鈴木絢子先生と一緒に仕事をしてきました。
鈴木(絢) 正直、当時はこういう状況になるとは想像していませんでした。それくらい大きく変わった気がします。
鈴木(穣) いまではシークエンスをより長く読むロングリードや、シークエンスではなく遺伝子の発現に関わるエピゲノム解析ができるようになってきました。
ただ、一番わかりやすいと思われたゲノム配列もなかなか薬には直結していない現状があります。近年のロングリード、シングルセル、空間解析など我々が扱っている新しい技術によってバイオロジカルに面白い結果が出てくるとしても、本当に患者さんの役に立つのかという問題意識は依然としてあります。
土原 そこは出口(治療)の方からも「こういうことを知りたいが、それにはどういう解析がいいだろうか」といったアプローチをすべきで、臨床におけるアンメットニーズやクリニカル・クエスチョンをどう翻訳し、ツールを持っている人たちと繋がっていくかですね。
鈴木(穣) いろいろ課題がある一方、海外で開発された技術にしろ、こちらで独自に開発した技術にしろ、我々はこれまで基本的に世界の中で1周目にずっとやり続けてきたことは確かです。
土原 最初のショートリードこそ論文で少し苦労しましたが、その後のロングリードもシングルセルも空間解析も、少なくとも最初の論文は世界中でもひと桁台で出していますからね。
鈴木(絢) 出してはいますけど、なかなかその次が続かない。先ほどおっしゃられたように、基礎研究としてやっているケースを含め、臨床の先生たちが本当に知りたいことに答えられているか。そこはまだちょっと難しいなと個人的には感じています。
土原 むしろこれからですね。網羅的なゲノム解析や空間解析ができる前は、新しい標的分子を見つけたり、新しい治療法をやりたいとなったとしても、その分子が一体どこでどのように挙動して発現しているのか、本当に効くのかどうか、どんな副作用が出るかもわからない状況でした。しかし、そういう解析が今やっとできるようになりつつあるのだと思います。
鈴木(穣) 私から見ると臨床の先生は日々、忙しくしていらっしゃって、製薬会社の研究者も様々なプロジェクトに邁進していらっしゃる。そうであれば、私たちアカデミアが前臨床の部分を含めてもう少し研究基盤を充実させないと加速していかないのではないかとも思います。
土原 その点については、最新のテクノロジーを大学に閉じ込めておくとその後の発展性はないという考えに基づいて、鈴木先生たちが立ち上げられたKOG(一般社団法人柏の葉オーミクスゲート ※4)は大きな成果だと思います。
社会人にゲノム人材として必要な教育を提供するため設けられたDSTEPも同じですね。
※4 KOG(一般社団法人柏の葉オーミクスゲート):先端のゲノム解析研究が進む「柏の葉」を拠点とし、日本のライフサイエンスにおけるゲノム解析の発展への寄与を目的として設立された一般社団法人。東京大学大学院新領域創成科学研究科と連携し、ゲノム解析に必要な最新の大規模計測・情報解析技術をアカデミア・民間企業へ提供している。
鈴木(穣) 正規の大学教育では、博士を出るまでに5年、ダイレクターシップになるまでには10年、15年という期間がかかります。
もちろんそれだけの学びと経験は本質的に必要なことですが、同時に今ある装置や技術のフル活用を考えることも大切です。それにはスタートアップも大企業も含め、民間の研究者に即戦力として一人称でコミットしてもらうのが早いし、それしかないと考えています。
DSTEPはそこで、これまで我々がリーチアウトできていない方にもぜひ来ていただいて1年とか2年でも学び、博士論文を書いて企業に戻り、社内で展開していただくのがコンセプトです。
土原 話は少しずれますが、日本に限らず世界中でがんの新薬開発が非常に高度化、複雑化しています。複雑化している原因の一つは、昔のように細胞株に化合物をかけてみるというアプローチではなく、標的分子を決めそれを阻害する物質を探すというアプローチに変わってきたことです。そうすると、目の前の患者さんの体内でどの標的分子が異常を起こしているのかを調べなければならない。臨床の現場でゲノム解析なりマルチオミクス解析を行わなければ適切な治療ができません。
従来型の基礎研究のためのゲノム解析は、とにかくできるだけ網羅的に、あるいはできるだけ詳細にということでやってきましたが、ゲノム解析を臨床で使うためには質の保証が必要になってきます。
これは基礎研究における「できるだけ正確かつ精密に」ということとは違い、誰がどこでやっても同じ結果が出る「汎用性」のことです。時間軸の違いもあります。研究であれば1年かけて解析してもいいですが、臨床ではその間に患者さんが亡くなったりします。週単位で、あるいは日単位で結果が出るという「迅速性」も欠かせません。
私もゲノムの基礎研究では意識していなかったのですが、臨床の現場でゲノム解析を使おうと思えば、そういった異なる視点が必要であり、それが臨床応用なのです。
鈴木先生がおっしゃった研究と臨床の間の壁というのは、例えばそういうところにもあるのでしょう。それを乗り越えるには、関係者の考え方、コンセプト、頭の作りそのものを変えて行かないといけません。
鈴木(穣) 個人的な話で恐縮なのですが、私は修士、博士の頃からずっと技術開発を専門とし、新しいメソッド、方法を作ってきました。その過程で学んだのは、質保証やターンオンタイムはアカデミアでも大切な概念だということです。90年代から2000年代初めには、「あそこにしかできない職人芸の技術」とか「エクスパティーズがある」というのは褒め言葉でした。しかし、凝った技術ほど広まらず、簡易版で誰でもできる技術の方が広まる傾向があります。
今では「自分にしかできない技術」はアカデミアですら貶し言葉となり、やたら時間がかかることや複雑な動作過程は意味がないとされます。このことをアカデミアの関係者はあまり認識してない気がします。自分しかできないオリジナリティは最初はいいかもしれませんが、簡略化して誰でも使えるようになってこそ技術開発と呼べるのだと思います。
土原 ビッグデータの時代になったからでしょう。1人の職人だけではビッグデータは作れません。世界中のいろいろなデータを重ね合わせてやっとビッグデータになる。研究においてもパラダイムが変わっていることは、アカデミアの中にずっといると見えづらいのかもしれません。
鈴木(穣) さきほど触れたDSTEPは、企業などの若手研究者を招いて半年や1年で鍛えるという枠組みです。
ただ、簡単にいかないのは企業の上長から許可が出ない。貴重な戦力を役に立つかわからない、お金になるかどうかわからない技術を学ぶために突っ込むことはできないというのです。上層部の方にはぜひ、意識改革をしていただきたい。
製薬企業の上層部には10年前のスキームで薬を作ろうとしている方もいて、「今こういうことが起こっている」という情報を知っていただかないと価値をわかっていただけません。逆にいうと、役に立つということを示さないと技術開発にもデータ産生にもお金つかないという状況があります。
土原 オープンデータについては、いわゆるパブリックに全部公開するという意味ではなく、当事者の方たちといかに汎用性があって迅速性がある仕組みをつくるかです。そのことでデータは集まります。
そうやって集まってきたデータをサイロの中に貯めておくのではなく、どういう当事者といかに密接に、かつセキュリティやプライバシーが保たれた状態で共有できるか。そこには当然、知的財産権(知財)の問題も入ってきます。
ゲノムの配列そのものは知財の対象ではありませんが、そこから派生して出てくるプロダクトに関しては当然、知財が発生します。データを挟んだ利害関係は非常にシビアでシリアスな話になります。そこをどうやって加速させるのか考えていくと、ある種のコンソーシアムなりギルドを作らないと前に進まないだろうということで、我々はゲノム解析の結果に臨床情報を組み合わせ、まさに患者さんたちのリアルタイムの情報をリアルタイムに即時共有ができるデータベースのシステムとして作ったのがSCRUM-Japanでした。
鈴木(穣) アカデミアとしては、そこにシングルセルや空間解析をどう取り込んでいったらいいのかが、新たな課題になっています。分かっている検体で分かっていることが起こっていることをある程度きちんと示せるし、検証もできます。しかし、それを臨床試験において取り組んでいくとき、出口に直結するかどうかは分からないところがあります。もちろん、わからないことをやらなければならないこともある
そもそも、国際治験を行っているメガファーマから見ると、日本でしかできないこと、例えば柏でしかできない解析がないと引っ張ってこれません。技術的には世界最高水準のものがあると信じているので、パイロットケースなどを通じて治験の誘致に繋げていきたい。ここ10年間アカデミアの宿題ではありつつも、あまり答えられていないところではありますが。
鈴木(絢) 私は肺がんを研究していて、ロングリードシーケンス、空間トランスクリプト解析といった新しい技術を使って、これまで見えなかった微小環境におけるがん細胞と免疫細胞とのインタラクションにおいて、病理の進展に沿って分子がどう変わっていくかを可視化したりしています。「こういうパターンが見えてきた」ということをプレゼンテーションすると、臨床の先生方からは「漠然と思っていたことがやっぱりこうだったと分かって確かに面白い」とよく言われます。
ただ、すごく新しいことが分かったかと言われるとなかなかそうはなりません。「想像していたものがやっぱりそうなんだ」という感じなのです。
それとともに必ず出るのは、テクノロジーのリミテーションについての質問です。例えば空間トランスクリプトームといっても、がんのある場所を切ってそこを計測しているので、「そこをどうやって選んだのか」「血管がこうなっていたらどうなのか」「他の場所もそれで説明できるのか」といった指摘を受けます。
もちろん、興味があるから、あるいは困っているから聞いてきてくださるのですが、なかなかすぐ的確に答えられないジレンマがあり、もっと準備していかなければいけないですね。
鈴木(穣) これまで病理診断で組織の形などを見て分類していたのが、いまは遺伝子がどうなっているか全部分かります。例えば、変な形になっていて、なんでこうなっているのか分からなかったけれど、分子を調べるとここの接着因子がおかしくなっていたことが分る。そこについて病理の先生たちの印象を変えるところまでは来ていると思います。
しかし、それがどういう形で患者さんに還元できるかというと分からない。
土原 今、絢子先生たち技術系の研究者が現場で困っているのはよくよく理解した上で、私のような出口側の人間からは少し違った見方をしています。
ゲノムの臨床応用という意味では、なぜその薬が効くのか、なぜこの薬は効かないのか、あるいは今効いているのに効かなくなるときには何が起こるのか。「モード・オブ・アクション」や「プルーフ・オブ・コンセプト」というのが創薬でよく出てくる言葉であり、ゲノム解析やオミックス解析で一番期待しているのはそこです。
そこをどれぐらい精密に行い、解釈に繋がる解析データを作れるかが出口側からの一番のリクエストです。
シークエンスがサンガーからパラレルになり、リードがショートからロングになり、対象領域がバルクからシングルやスぺーシャルになっています。ゲノム解析は20世紀まではAGCT という1次元の科学でした。これがいま2次元、あるいは空間解析では3次元となってきましたが、私たちが欲しいのは時間経過を加えた4次元の情報です。
今までゲノム変異を私たちもかなり追いかけてきたつもりですが、これからはがん細胞が次の瞬間にどう変化しているかを予測する段階に入って行きます。これは創薬開発にもつながります。あるいは、がん細胞が一つ前の段階にはどうだったかがわかると発がん研究に大きく貢献します。今、3次元まで到達したオミックス解析に時間軸の4次元めが入ってくれば、がんゲノム研究はさらに大きく飛躍する可能性があるのです。
既に絢子先生たちもそういう論文を書いていらっしゃいます。一つの平面の中で進展具合の違うがん細胞のエリアがあることは病理医にはよく知られていたことですが、その中においてゲノムレベルでピンポイントで何が起こっているかは分からなかった。それが、シングルセルから空間解析と進展することで一挙に変わってきた。私たちも、一つの平面上ではありながら、時間軸で追いかけることができるようになっていると考えています。
鈴木(穣) 確かにそこを検証しなければなりません。ただ、患者さんの検体細胞をあるタイムラインのT0で取ってきても、これをあと1年間放っておいたらどうなるのか、1年前に見たらどうだったのだろう、あるいは患者さんはこの抗がん剤で治療を受けたけれど別の薬だったらどうだったのかということは簡単には答えられないし、再現できません。細胞を取ってきてある程度推論し、必要条件はわかるけれど、必ずそうだったのかというところまでは検証がしにくい。
基礎科学者としてはむしろ少し戻る形で、「オルガノイド」(※5)の細胞培養のような形で検証できないかと考えています。
がんゲノム研究において、シングルセル解析など技術革新のサイクルがすごく速くなっている中で、臨床検体の解析については病理医の先生方に行ってもらうほうがよいのかもしれません。基礎研究者はむしろ、試験管の系に戻って時間経過をリアルタイムに追ったり、異なる条件など“たられば”的なアプローチをすることも重要ではないかと思っています。
※5 オルガノイド(Organoid):試験管の中で幹細胞から作るミニチュアの臓器。幹細胞のもつ自己複製能と分化能を利用して自己組織化させることで3次元的な組織様構造として形成される。
土原 血液などによるリキッドバイオプシーを使えば、1人の患者さんの臨床検体を追いかけて行くことは可能です。また、がん細胞だけでなく周りの免疫細胞や繊維芽細胞なども含めた微小環境を対象としたり、1人だけでなく同じがん種でも背景の異なる集団でみていくアプローチもありますが、そうなると研究コストが膨れ上がります。
そこで鈴木先生がおっしゃったように、臨床を反映した精密なモデル系を構築したり、あるいは数理モデルとしてコンピュータで処理できるような形にするアプローチはありだと思います。
鈴木 その場合、in silicoというより、むしろ手作り的なもののほうがいいように思っています。in silico的には美しくなくてもよく、いろいろなものが混ざった臨床状態を反映しているものです。がんゲノム研究では、微分方程式を並べたものはもうモデルとは言いません。
土原 綺麗な物理を求めるのではなく、できるだけ雑多なものですね。そこも、AIが入ってきたことでいまパラダイム変わりつつあるのだと思います。すごくシンプルな綺麗なものを求めるのではなく、雑多であることを前提とするサイエンスに変わってきている。がんゲノムの世界でも、in silicoの世界でも、クリニカルの世界でも、同じようなパラダイムシフトが起こってるタイミングなのだと思います。
鈴木(穣) 最後に、今後どのように研究を展開していくお考えかお聞きします。
鈴木(絢) 臨床の先生方は「そのテクノロジーを使ったらどういうふうに見えるのか知りたい」「面白いからぜひ一緒にやりましょう」と声をかけてくださっているので、そこはもっと丁寧に答えたり、基礎研究と臨床現場を繋ぐコラボレーターとしての役割を果たしたりしていきたいです。そしてぜひ、臨床に直接、貢献できるようになりたいと願っています。
人材育成の面では、何でもできなければいけない時代になってきて大変だなと感じています。私の世代まではドライができなくても生物学ができましたが、いまは両方できなければ研究が成り立ちません。さらにAIが出てきて、ChatGPTも使いこなせなければならない。とはいえ、全部できる人は必要なのか、また可能なのか。学生に対して私は個人的には自分の“強み”を作ってほしいと言っていますし、私自身もそういう方向を目指しています。
土原 がんゲノム研究についていえば、ここ10年ほどでゲノム解析の基礎ができ、臨床における応用が進んできました。より早期診断のところでゲノム解析を使うようになると、今度は予防リスクの診断へと展開し、そうするとこれまでのような体細胞変異だけでなく、遺伝子バリアントに対する解析需要が大きくなるでしょう。改めてそういったところを解析し、解釈できる研究者へのニーズがすごく高まります。そこに4次元ゲノム解析をどのように組み合わせていくかがこれからの大きな課題です。
ただ、そこで気になるのは、がんの原因遺伝子を持っていることが悪なのかという問題です。加齢によっても体細胞のゲノム変異は蓄積し、がんのリスクが高くなります。
そうすると我々はいったい何を目指すのか。ゲノムに一番傷がついてないのは生まれたときです。その状態を仮に「健康」と定義すると、がん治療の究極はそこに戻るのかという疑問が出てきます。
私は個人的には決して生まれたときには戻りたくないです。それはゲノム的な意味ではなく、いろいろ経験を積み重ねてきた今のほうが楽しいという哲学的な意味においてです。これはがん治療の意義にもリンクしてくると思います。
我々は一体何を、どこをゴールとし、何を理想としていくのか。そういう問いに対して、ゲノムやオミックスの研究は一体どういう寄与ができるのか。研究の現場から半歩退いた身からすると、そういうことを考えています。
若い先生たちも忙しいとは思いますが、そういったパースペクティブを頭の片隅に持って研究を進めてもらえると、誰かの物真似ではないオリジナルな研究に繋がると思います。
鈴木(穣) 私の最近の問題意識としては、研究者が減っているということがあります。難しい時代になっていることは間違いありませんが、アカデミアとしては幅広いスペクトラムを持った人材を育てるのが役割であり、それには研究者同士の草の根のネットワークがとても大切です。メディカル情報生命専攻はこれまでいろいろな人材を輩出しており、私自身そのネットワークをさらに広げて行きたいと考えています。
今日はありがとうございました。